ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの著書を、ジェシー・アイゼンバーグ主演で映画化した不条理スリラー。内気でさえない男の前に、見た目は全く同じながら性格は正反対のもう一人の自分が出現したことで、全てを狂わされていく男の姿を描く。監督はコメディアンとしても活躍し、長編監督デビュー作『サブマリン』が高く評価されたリチャード・アイオアディ、ヒロインに『イノセント・ガーデン』などのミア・ワシコウスカ。シュールな近未来的世界に、劇中歌として日本の昭和歌謡が流れる特異な世界観が異彩を放つ。
<感想>ドストエフスキーの「分身」は未読ですが、内容が常に夜か人工照明の室内で、葬儀のシーンも夜なのだ。画面の色調とレトロフューチャーな小道具、日本の歌謡曲の使用から、アキ・カウリスマキな空気感っぽくなるのかと思いきや、なんだかミラーボールのような日本の昭和歌謡をブチ込むことで、ストレンジな魅力を醸し出すのに成功しているようだ。
彼が働くオフィスは、大佐(ジェームズ・フォックス)なる人物が管理する不条理な暗黒社会。潜水艦内部みたいだが、役者たちはこのブラックユーモア劇を演じて楽しそうだ。
主人公の青年サイモンは、人付き合いが上手くて陽気なもう一人の自分の登場に翻弄される。しかし、社交的な分身の姿にオドオドした自分の情けなさを感じてしまう主人公のドラマは、ファンタジーとして面白いと思う。その不条理感と画面の雰囲気は、昨年の『複製された男』にも通じる世界で主人公のよるべなさに拍車をかける。
なりたい自分になれない話であり、無垢な状態を終えて図太く薄汚くなる通過儀礼の話でもあり、僕が僕であるために勝ち続けなければならない話でもある。
とりあえず、「ドッペルゲンガーもの」の王道といったところなのだが、望遠鏡で覗き、彼女・ミア・ワシコウスカの孤独を思いやるという設定は、まるで「裏窓」のような展開。証拠もないのに向かいの住人を殺人犯と決めつけて、ボロを出させようと嗅ぎまわる。だから、それなりの代償がもたされ、殺人犯と紙一重の存在にすぎないことも示される。
2役を演じるジェシー・アイゼンバーグは、同じ人間がテンションが低めな時と、調子に乗っている時とをさりげなさで演じ分けている。この微妙な温度差が、俺、俺の物語りへと自然に観る者を引き入れていく。
1977年生まれのリチャード・アイオアディ監督だからこそ、とにかく映像、美術に魅せられるが、ジュークボックスから流れる日本の歌謡曲「上を向いて歩こう」では驚かなかったが、ブルーコメッツの「草原の輝き」や「ブルー・シャトー」が流れてきたのには思わずびっくりさせられた。この場違いにも思える選曲には。他にもピアノによるシンプルな曲も。
物語は、労働者は単なる駒としかみなされない管理社会。要領の悪い男が、上司や同僚に酷い仕打ちを受け、思いを寄せるコピー係のハナ(ミア・ワシコウスカ)にも相手にされない。そんな彼が望遠鏡で覗いていたら、向かいのビルにいた男が飛び降りるのを目撃して以来、ただでさえ惨めな人生がさらに悪くなる。
そこへ、会社の新人として入社してきたジェームズは、サイモンと姿はうり二つだが性格は真逆。しかし、同僚たちは誰もそんなことを指摘せず、ジェームズはあっという間に会社に馴染み、サイモンの影がますます薄くなる。
しかも、ハナまでがジェームズに惹かれていき、サイモンは二人の仲を取り持つことに。さらに、ジェームズはサイモンに、お互いの適正を活かして時と場合によって入れ替わり、その場を上手くしのぐという作戦を提案する。
狡猾なジェームズのおかげでサイモンは、彼の悪だくみに巻き込まれる。サイモンはこのまま自分の分身のようなジェームズに、存在や人生を乗っ取られてしまうのだろうか。
ハナが倒れて病院へ運ぶと、妊娠していることが分かり、その父親がジェームズだということも。ところが、かれは父親としての責任を拒否して、そのことでも、他のことでも彼の存在が鬱陶しくなり、サイモンが消えるというか、ベランダから飛びおり自殺を図る。前に飛びおり自殺をした男は、コンクリート地面に叩きつけられ即死。そこへ来た刑事が、2階にある網の上に落ちてバウンドして地面に落ちれば命は助かったのに。という言葉を思いだし、サイモンが、その2階の網を目指して飛び降りる。
最後は、結局自分の意気地なさと心の弱さを見せつけるという、どうして自分に無いものを他人に求めるのか、誰と比較しても自分は自分だろうに。憧れる他人には成れないのだから。
ドンデン返しでぶんぶんと振り回されるようなカット割りで、まったく違う世界へと誘われて面白かったです。
2015年劇場鑑賞作品・・・31映画(アクション・アドベンチャー) ブログランキング
<感想>ドストエフスキーの「分身」は未読ですが、内容が常に夜か人工照明の室内で、葬儀のシーンも夜なのだ。画面の色調とレトロフューチャーな小道具、日本の歌謡曲の使用から、アキ・カウリスマキな空気感っぽくなるのかと思いきや、なんだかミラーボールのような日本の昭和歌謡をブチ込むことで、ストレンジな魅力を醸し出すのに成功しているようだ。
彼が働くオフィスは、大佐(ジェームズ・フォックス)なる人物が管理する不条理な暗黒社会。潜水艦内部みたいだが、役者たちはこのブラックユーモア劇を演じて楽しそうだ。
主人公の青年サイモンは、人付き合いが上手くて陽気なもう一人の自分の登場に翻弄される。しかし、社交的な分身の姿にオドオドした自分の情けなさを感じてしまう主人公のドラマは、ファンタジーとして面白いと思う。その不条理感と画面の雰囲気は、昨年の『複製された男』にも通じる世界で主人公のよるべなさに拍車をかける。
なりたい自分になれない話であり、無垢な状態を終えて図太く薄汚くなる通過儀礼の話でもあり、僕が僕であるために勝ち続けなければならない話でもある。
とりあえず、「ドッペルゲンガーもの」の王道といったところなのだが、望遠鏡で覗き、彼女・ミア・ワシコウスカの孤独を思いやるという設定は、まるで「裏窓」のような展開。証拠もないのに向かいの住人を殺人犯と決めつけて、ボロを出させようと嗅ぎまわる。だから、それなりの代償がもたされ、殺人犯と紙一重の存在にすぎないことも示される。
2役を演じるジェシー・アイゼンバーグは、同じ人間がテンションが低めな時と、調子に乗っている時とをさりげなさで演じ分けている。この微妙な温度差が、俺、俺の物語りへと自然に観る者を引き入れていく。
1977年生まれのリチャード・アイオアディ監督だからこそ、とにかく映像、美術に魅せられるが、ジュークボックスから流れる日本の歌謡曲「上を向いて歩こう」では驚かなかったが、ブルーコメッツの「草原の輝き」や「ブルー・シャトー」が流れてきたのには思わずびっくりさせられた。この場違いにも思える選曲には。他にもピアノによるシンプルな曲も。
物語は、労働者は単なる駒としかみなされない管理社会。要領の悪い男が、上司や同僚に酷い仕打ちを受け、思いを寄せるコピー係のハナ(ミア・ワシコウスカ)にも相手にされない。そんな彼が望遠鏡で覗いていたら、向かいのビルにいた男が飛び降りるのを目撃して以来、ただでさえ惨めな人生がさらに悪くなる。
そこへ、会社の新人として入社してきたジェームズは、サイモンと姿はうり二つだが性格は真逆。しかし、同僚たちは誰もそんなことを指摘せず、ジェームズはあっという間に会社に馴染み、サイモンの影がますます薄くなる。
しかも、ハナまでがジェームズに惹かれていき、サイモンは二人の仲を取り持つことに。さらに、ジェームズはサイモンに、お互いの適正を活かして時と場合によって入れ替わり、その場を上手くしのぐという作戦を提案する。
狡猾なジェームズのおかげでサイモンは、彼の悪だくみに巻き込まれる。サイモンはこのまま自分の分身のようなジェームズに、存在や人生を乗っ取られてしまうのだろうか。
ハナが倒れて病院へ運ぶと、妊娠していることが分かり、その父親がジェームズだということも。ところが、かれは父親としての責任を拒否して、そのことでも、他のことでも彼の存在が鬱陶しくなり、サイモンが消えるというか、ベランダから飛びおり自殺を図る。前に飛びおり自殺をした男は、コンクリート地面に叩きつけられ即死。そこへ来た刑事が、2階にある網の上に落ちてバウンドして地面に落ちれば命は助かったのに。という言葉を思いだし、サイモンが、その2階の網を目指して飛び降りる。
最後は、結局自分の意気地なさと心の弱さを見せつけるという、どうして自分に無いものを他人に求めるのか、誰と比較しても自分は自分だろうに。憧れる他人には成れないのだから。
ドンデン返しでぶんぶんと振り回されるようなカット割りで、まったく違う世界へと誘われて面白かったです。
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