インドネシアで行われた大量虐殺を題材にし、ベルリン国際映画祭観客賞受賞、アカデミー賞にもノミネートされたドキュメンタリー。1960年代にインドネシアで繰り広げられた大量虐殺の加害者たちに、その再現をさせながら彼らの胸中や虐殺の実態に迫る。『フィツカラルド』などの鬼才ヴェルナー・ヘルツォーク、『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白』などのエロール・モリス監督が製作総指揮を担当。凶行の再演という独特なスタイルに加え、そこから浮かび上がる人間が抱える闇にドキリとさせられる。
あらすじ:1960年代のインドネシアで行われていた大量虐殺。その実行者たちは100万近くもの人々を殺した身でありながら、現在に至るまで国民的英雄としてたたえられていた。そんな彼らに、どのように虐殺を行っていたのかを再演してもらうことに。まるで映画スターにでもなったかのように、カメラの前で殺人の様子を意気揚々と身振り手振りで説明し、再演していく男たち。だが、そうした異様な再演劇が彼らに思いがけない変化をもたらしていく。
<感想>あまりの衝撃に、終わってもしばらく身動きができなかった。ドキュメンタリーだとか、フィクションだとかは問題ではない。不快な映画だった。何とも特異なドキュメンタリーで、その内容は衝撃的、かつ戦慄的でその手法は従来の常識を超えて、なぜか私たちをうろたえさせる。
ドキュメンタリーで描かれた世界への批判的視点は、構成のなかでの違和感として組み入れられるのだが、ところがである、本作にはそれがない。どんどん構成はフィクション度を増していき、それは効果を狙う編集にあらわれる。
彼らが愛したギャング映画とは違って、恐ろしいのは、模擬殺人シーンで、演技者は想像力を欠いていることだ。ところが、犠牲者を演じた殺人者は、最後で自責の念に駆られたようにも見えたのだが。
映画館のダフ屋から虐殺者となったアンワル・コンゴ。もとはどこにでもいる町のならず者の若者の一人だった。ならず者は「フリーマン」自由人だと彼らは繰り返すが、この自由は規則や公式組織から逸脱する自由である。
日本でいえば愚連隊で、彼の映画への執着や映画ファンでもある彼が、映画製作にのめり込む姿に、はからずも映画への熱意と愛が透けて見えて、複雑な気持ちになる。
だが、1965年9月30日の出来事は、彼らを「愚連隊」から「殺人者」に変身させた。犠牲者が百万人に上るとされる大虐殺のなか、ならず者たちは易々と殺人を重ねたのである。その殺人を、彼らは嬉々として再演し始める。
あまりにも多くの人間を殺したので、「そこいら中、血だらけだった」とアンワルは言う。その血の臭いがひどく、流血を避けるのに針金で絞め殺す方法を思いついたというのだ。それは、彼らがハリウッドのギャング映画から学んだものだった。アンワルはそれを、当時の虐殺の現場で再演して見せるのだ。
彼をリーダーとする登場人物たちの、素人にしてはあまりにも達者な芝居に、舌を巻いてしまう。彼らにとっては、殺人と殺人の演技は映画的イメージに融合している。だから本作は、そうした映画と殺戮の融合を逆に利用している。巧妙な作戦なのだ。
マーロン・ブランドやアル・パチーノに心酔する彼らは、絞殺を再演した映像を見ても、自分の映りぶりを気にして、殺人者の自分はハリウッド以上の残酷さを演じられると豪語する。かつて劇団にいたというギャングのヘルマンは、ドラマパートに於いて、マツコ・デラックスふうの女装を披露し、殺人者たち自身が書く場面の配役や衣裳、演出、台詞を決めていく。彼らは強制され、あるいは自責の念に駆られて過去を演じるのではない。自ら殺戮を自国の歴史として映像化しているのだ。
しかも本作には、民兵組織や政府高官も協力している。スハルト独裁体制下、共産主義者の大虐殺は国民的スペクタルとして再演されてきた。人々は、この体制の起源物語の嘘を知っている。それでも彼らは虐殺を何度も再演することで、自らを正当化してきたわけなのだ。だから芝居じみた行為に慣れてきた支配層は、本作も自分たちを正当化するものだと思い込んでいるらしい。ああぁ、なんたる壮絶なる誤解なのだろう。
しかし映画は、彼らの過去の行為に批判的なものとなり、アンワルは自分の心の底にこびりついてきた被害者の眼差しを呼び起こしてしまう。やがて彼は、針金殺人を嬉々として再演した同じ場所で、何度も嘔吐するのだ。アンワル本人の葛藤までもが、見事な生理的アクションとなっていることにも驚きます。
当時の大量殺人者たちが、「国民的英雄」として待遇されているという、かの国の現実にも驚くが、彼らが殺人現場を再現してくれとの注文に、嬉々として応じているのには驚愕する。
今は好々爺いとなり孫と戯れるならず者たちの一人は、ナタで男の首を断ち落とすが、頭だけになった男の眼が開いたままで、それを閉じてこなかったことをずっと考え続けていた。以来、その閉じてこなかった眼にいつも見られているような気がすると言うのだ。
人間は人間を殺せるが、ほとんどの人間はその事実に耐えられないだろう。やはり常人には殺人なんてできない、と思う。だが、彼らが経験したような、人を殺すことが許される社会になったら、と考えるとゾッと背筋が寒くなる。
かつての殺人者に何が生じたかをカメラは克明に捉えていく。真実よりも虚構に迫ることで、権力の残忍さをその担い手自身に締めさせた本作は、ドキュメンタリーとして、超越した1本として歴史に残るはずだと思います。
2014年劇場鑑賞作品・・・242 映画(アクション・アドベンチャー) ブログランキング
あらすじ:1960年代のインドネシアで行われていた大量虐殺。その実行者たちは100万近くもの人々を殺した身でありながら、現在に至るまで国民的英雄としてたたえられていた。そんな彼らに、どのように虐殺を行っていたのかを再演してもらうことに。まるで映画スターにでもなったかのように、カメラの前で殺人の様子を意気揚々と身振り手振りで説明し、再演していく男たち。だが、そうした異様な再演劇が彼らに思いがけない変化をもたらしていく。
<感想>あまりの衝撃に、終わってもしばらく身動きができなかった。ドキュメンタリーだとか、フィクションだとかは問題ではない。不快な映画だった。何とも特異なドキュメンタリーで、その内容は衝撃的、かつ戦慄的でその手法は従来の常識を超えて、なぜか私たちをうろたえさせる。
ドキュメンタリーで描かれた世界への批判的視点は、構成のなかでの違和感として組み入れられるのだが、ところがである、本作にはそれがない。どんどん構成はフィクション度を増していき、それは効果を狙う編集にあらわれる。
彼らが愛したギャング映画とは違って、恐ろしいのは、模擬殺人シーンで、演技者は想像力を欠いていることだ。ところが、犠牲者を演じた殺人者は、最後で自責の念に駆られたようにも見えたのだが。
映画館のダフ屋から虐殺者となったアンワル・コンゴ。もとはどこにでもいる町のならず者の若者の一人だった。ならず者は「フリーマン」自由人だと彼らは繰り返すが、この自由は規則や公式組織から逸脱する自由である。
日本でいえば愚連隊で、彼の映画への執着や映画ファンでもある彼が、映画製作にのめり込む姿に、はからずも映画への熱意と愛が透けて見えて、複雑な気持ちになる。
だが、1965年9月30日の出来事は、彼らを「愚連隊」から「殺人者」に変身させた。犠牲者が百万人に上るとされる大虐殺のなか、ならず者たちは易々と殺人を重ねたのである。その殺人を、彼らは嬉々として再演し始める。
あまりにも多くの人間を殺したので、「そこいら中、血だらけだった」とアンワルは言う。その血の臭いがひどく、流血を避けるのに針金で絞め殺す方法を思いついたというのだ。それは、彼らがハリウッドのギャング映画から学んだものだった。アンワルはそれを、当時の虐殺の現場で再演して見せるのだ。
彼をリーダーとする登場人物たちの、素人にしてはあまりにも達者な芝居に、舌を巻いてしまう。彼らにとっては、殺人と殺人の演技は映画的イメージに融合している。だから本作は、そうした映画と殺戮の融合を逆に利用している。巧妙な作戦なのだ。
マーロン・ブランドやアル・パチーノに心酔する彼らは、絞殺を再演した映像を見ても、自分の映りぶりを気にして、殺人者の自分はハリウッド以上の残酷さを演じられると豪語する。かつて劇団にいたというギャングのヘルマンは、ドラマパートに於いて、マツコ・デラックスふうの女装を披露し、殺人者たち自身が書く場面の配役や衣裳、演出、台詞を決めていく。彼らは強制され、あるいは自責の念に駆られて過去を演じるのではない。自ら殺戮を自国の歴史として映像化しているのだ。
しかも本作には、民兵組織や政府高官も協力している。スハルト独裁体制下、共産主義者の大虐殺は国民的スペクタルとして再演されてきた。人々は、この体制の起源物語の嘘を知っている。それでも彼らは虐殺を何度も再演することで、自らを正当化してきたわけなのだ。だから芝居じみた行為に慣れてきた支配層は、本作も自分たちを正当化するものだと思い込んでいるらしい。ああぁ、なんたる壮絶なる誤解なのだろう。
しかし映画は、彼らの過去の行為に批判的なものとなり、アンワルは自分の心の底にこびりついてきた被害者の眼差しを呼び起こしてしまう。やがて彼は、針金殺人を嬉々として再演した同じ場所で、何度も嘔吐するのだ。アンワル本人の葛藤までもが、見事な生理的アクションとなっていることにも驚きます。
当時の大量殺人者たちが、「国民的英雄」として待遇されているという、かの国の現実にも驚くが、彼らが殺人現場を再現してくれとの注文に、嬉々として応じているのには驚愕する。
今は好々爺いとなり孫と戯れるならず者たちの一人は、ナタで男の首を断ち落とすが、頭だけになった男の眼が開いたままで、それを閉じてこなかったことをずっと考え続けていた。以来、その閉じてこなかった眼にいつも見られているような気がすると言うのだ。
人間は人間を殺せるが、ほとんどの人間はその事実に耐えられないだろう。やはり常人には殺人なんてできない、と思う。だが、彼らが経験したような、人を殺すことが許される社会になったら、と考えるとゾッと背筋が寒くなる。
かつての殺人者に何が生じたかをカメラは克明に捉えていく。真実よりも虚構に迫ることで、権力の残忍さをその担い手自身に締めさせた本作は、ドキュメンタリーとして、超越した1本として歴史に残るはずだと思います。
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