第68回カンヌ国際映画祭ある視点部門オープニング作品に選ばれた『あん』の河瀬直美監督と永瀬正敏が、再び組んだ人間ドラマ。永瀬演じる弱視のカメラマンと、視覚障害者向けに映画の音声ガイドを制作する女性が、それぞれに光を求めて葛藤しながら心を通わせていくさまを描く。ヒロインには『ユダ』などの水崎綾女。『駆込み女と駆出し男』などの神野三鈴、『東京ウィンドオーケストラ』などの小市慢太郎、『許されざる者』などの藤竜也らが出演する。
あらすじ:視覚障害者向けに映画の音声ガイドを制作している美佐子(水崎綾女)は、仕事を通じて弱視のカメラマン雅哉(永瀬正敏)と出会う。雅哉の素っ気ない態度にイライラする美佐子だったが、彼が撮影した夕日の写真に衝撃を受ける。やがて症状が悪化し、視力を失いゆく雅哉を間近で見つめるうちに、美佐子は……。
<感想>永瀬が演じた主人公が、かつては名の知られた写真家であったこと。病により視力を失いつつある。彼が目の不自由な人が映画を楽しむバリアフリー映画のモニターとして活動していて、そこで音声ガイドの原稿を制作する美佐子と出会うのだが、中森(永瀬)は彼女の技術者としての未熟さをはっきりと口にして、制作過程で互いに強くぶつかるが、その度に距離を縮めていく。
実は、永瀬自身が写真家として活動をしており、そこには写真館を営んでいた祖父の存在が強く関係しているというのだ。その祖父が戦後、カメラを盗まれて廃業に至ったエピソードが今回、映画の中のモチーフとして使われているのだ。中森が大学時代の友達と飲み屋に行き、雑談をして帰る時に、道でつまずき転んでしまう。持っていたカバンに大事なカメラが道に散らかる。映像ではそのカメラを手に取って盗んで行く人間がいることを。
すかさず、中森はカメラを盗んだ犯人を割り出し、その友達の部屋を訪ねると、カメラのフイルムを現像していたのだ。「俺のカメラを返してくれ、それは俺の心臓と同じものだ」と罵声を浴びせる。卑怯な友達もいるもんだ。
と同時に、行方不明となった父の面影を探し続けている美佐子の役には、水崎綾女が扮しており、仕事だけに必死になり過ぎて若さゆえに負けず嫌いな部分も見えて来るのだ。その美佐子には、河瀬直美監督自身の生い立ちが強く投影されていると見て取れるのが分かる。
撮影は河瀬直美監督の故郷である、奈良で行われ、永瀬は「あん」の時と同様に、撮影前から中森のアパートに移り住んだ。前回と違うのは、弱視キットを付け、ほぼ見えない状態で暮らしたことだという。監督はこのような「体験」を俳優に負わせるが、役者にはそれぞれこれまでに培った経験値もあり、そこに信頼は置かなかったのだろうか。
しかし、永瀬は言うのだ、確かにこれまでの経験で身に付いたテクニックがありますから、それで弱視の人を演じようとしたら演じられます。でも、監督は、演技のテクニックって、無駄についた垢に過ぎない。今回の体験で、弱視キットを付けて2週間の間、アパートで暮らしてみて、ほのかに視界が残っているという状態で過ごして、美術部が用意してくれたテーブルと床の色の見分けがつかずに、何度がコップや皿をテーブルの上に置いたつもりが落としてしまう。弱視の人たちの家い行ってみて気が付いたことは、みなさんトイレに大切なものを置いているというのだ。
今回は特に、視覚障碍者の方たちとの交流が、生半可な気持ちでは演じられないという、真剣に向き合ったというのだ。目線を下に落とした状態の方が、実は見えているとか、何かの音に対して、顔だけ動くのではなく、上半身ごと動かし、耳を傾ける姿などは、綿密なリサーチから出て来る仕草だと感じました。
一番印象に残ったのが、中森が見えなくなる手前の段階を演技しているところ。それは薬を飲んでいるうちは、まだ見えるようになるんじゃないかと希望を持ってしまう。生きるためには今後何か仕事をしなければならず、しかし、どこかでカメラマンとしての仕事の夢も捨てきれない。その葛藤を演じている永瀬さん、電車の中で本当に見えなくなってしまうという場面では、その時がやってきたと怖くなる、隣にいる美佐子の手を握ってしまうのだ。その後は、路上で吐き、苦しむ中森の心境も映し出されます。
音声ガイドを仕事としている美佐子も、父親が失踪し、母親は認知症を患い田舎で一人で住んでいる。近所の人が毎日、母親の面倒を見てくれるが、ある日、徘徊をしていなくなる。その知らせを聞き飛んで帰る美佐子。
もしかして、いつも山の上で、母親と夕焼けを見て父親の帰って来るのを願っていたことを想いだし。そこへ行ってみると、母親はそこに立っていた。まだ朝もやがかかって、太陽が出て来るところだ。美佐子はいまだに父親の疾走を受け入れてはいなかったのだ。
この映画の中では、窓から差し込む太陽の光、夕日、朝日など、それは何故か弱視の人がそれを見ているような、肌色が黄土色に変わるような、太陽にもやがかかっていて、光は伝わってくるも曇っているのだ。
音声ガイドの仕事も、目の見えない人のために映画の映像を言葉で説明するところ。その人にもよるが、余りにも明確に言葉でいうのではなく、やんわりと脚色して、弱視の人たちが言葉を聞き、頭で想像するようにと。しかし、視覚障碍者の方には、映画を観ながら音に集中して、音声ガイドを聞き映画のなかへと自分が入っていくような感じがするのがいいと言うのだ。
主人公の中森が、視界がどんどん狭まりつつある状況の中で、必死にカメラを公園で遊んでいる子供たちにカメラを向けシャッターを切る。美佐子の顔を手でなでて、輪郭をイメージしてゆく中森、そしてカメラを覗き込み、わずかに薄く見える美佐子を捕えてシャッターを切る。
2017年劇場鑑賞作品・・・131映画(アクション・アドベンチャー) ブログランキング/
あらすじ:視覚障害者向けに映画の音声ガイドを制作している美佐子(水崎綾女)は、仕事を通じて弱視のカメラマン雅哉(永瀬正敏)と出会う。雅哉の素っ気ない態度にイライラする美佐子だったが、彼が撮影した夕日の写真に衝撃を受ける。やがて症状が悪化し、視力を失いゆく雅哉を間近で見つめるうちに、美佐子は……。
<感想>永瀬が演じた主人公が、かつては名の知られた写真家であったこと。病により視力を失いつつある。彼が目の不自由な人が映画を楽しむバリアフリー映画のモニターとして活動していて、そこで音声ガイドの原稿を制作する美佐子と出会うのだが、中森(永瀬)は彼女の技術者としての未熟さをはっきりと口にして、制作過程で互いに強くぶつかるが、その度に距離を縮めていく。
実は、永瀬自身が写真家として活動をしており、そこには写真館を営んでいた祖父の存在が強く関係しているというのだ。その祖父が戦後、カメラを盗まれて廃業に至ったエピソードが今回、映画の中のモチーフとして使われているのだ。中森が大学時代の友達と飲み屋に行き、雑談をして帰る時に、道でつまずき転んでしまう。持っていたカバンに大事なカメラが道に散らかる。映像ではそのカメラを手に取って盗んで行く人間がいることを。
すかさず、中森はカメラを盗んだ犯人を割り出し、その友達の部屋を訪ねると、カメラのフイルムを現像していたのだ。「俺のカメラを返してくれ、それは俺の心臓と同じものだ」と罵声を浴びせる。卑怯な友達もいるもんだ。
と同時に、行方不明となった父の面影を探し続けている美佐子の役には、水崎綾女が扮しており、仕事だけに必死になり過ぎて若さゆえに負けず嫌いな部分も見えて来るのだ。その美佐子には、河瀬直美監督自身の生い立ちが強く投影されていると見て取れるのが分かる。
撮影は河瀬直美監督の故郷である、奈良で行われ、永瀬は「あん」の時と同様に、撮影前から中森のアパートに移り住んだ。前回と違うのは、弱視キットを付け、ほぼ見えない状態で暮らしたことだという。監督はこのような「体験」を俳優に負わせるが、役者にはそれぞれこれまでに培った経験値もあり、そこに信頼は置かなかったのだろうか。
しかし、永瀬は言うのだ、確かにこれまでの経験で身に付いたテクニックがありますから、それで弱視の人を演じようとしたら演じられます。でも、監督は、演技のテクニックって、無駄についた垢に過ぎない。今回の体験で、弱視キットを付けて2週間の間、アパートで暮らしてみて、ほのかに視界が残っているという状態で過ごして、美術部が用意してくれたテーブルと床の色の見分けがつかずに、何度がコップや皿をテーブルの上に置いたつもりが落としてしまう。弱視の人たちの家い行ってみて気が付いたことは、みなさんトイレに大切なものを置いているというのだ。
今回は特に、視覚障碍者の方たちとの交流が、生半可な気持ちでは演じられないという、真剣に向き合ったというのだ。目線を下に落とした状態の方が、実は見えているとか、何かの音に対して、顔だけ動くのではなく、上半身ごと動かし、耳を傾ける姿などは、綿密なリサーチから出て来る仕草だと感じました。
一番印象に残ったのが、中森が見えなくなる手前の段階を演技しているところ。それは薬を飲んでいるうちは、まだ見えるようになるんじゃないかと希望を持ってしまう。生きるためには今後何か仕事をしなければならず、しかし、どこかでカメラマンとしての仕事の夢も捨てきれない。その葛藤を演じている永瀬さん、電車の中で本当に見えなくなってしまうという場面では、その時がやってきたと怖くなる、隣にいる美佐子の手を握ってしまうのだ。その後は、路上で吐き、苦しむ中森の心境も映し出されます。
音声ガイドを仕事としている美佐子も、父親が失踪し、母親は認知症を患い田舎で一人で住んでいる。近所の人が毎日、母親の面倒を見てくれるが、ある日、徘徊をしていなくなる。その知らせを聞き飛んで帰る美佐子。
もしかして、いつも山の上で、母親と夕焼けを見て父親の帰って来るのを願っていたことを想いだし。そこへ行ってみると、母親はそこに立っていた。まだ朝もやがかかって、太陽が出て来るところだ。美佐子はいまだに父親の疾走を受け入れてはいなかったのだ。
この映画の中では、窓から差し込む太陽の光、夕日、朝日など、それは何故か弱視の人がそれを見ているような、肌色が黄土色に変わるような、太陽にもやがかかっていて、光は伝わってくるも曇っているのだ。
音声ガイドの仕事も、目の見えない人のために映画の映像を言葉で説明するところ。その人にもよるが、余りにも明確に言葉でいうのではなく、やんわりと脚色して、弱視の人たちが言葉を聞き、頭で想像するようにと。しかし、視覚障碍者の方には、映画を観ながら音に集中して、音声ガイドを聞き映画のなかへと自分が入っていくような感じがするのがいいと言うのだ。
主人公の中森が、視界がどんどん狭まりつつある状況の中で、必死にカメラを公園で遊んでいる子供たちにカメラを向けシャッターを切る。美佐子の顔を手でなでて、輪郭をイメージしてゆく中森、そしてカメラを覗き込み、わずかに薄く見える美佐子を捕えてシャッターを切る。
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