死刑囚の告発をもとに、雑誌ジャーナリストが未解決の殺人事件を暴いていく過程をつづったベストセラーノンフィクション「凶悪 ある死刑囚の告発」(新潮45編集部編)を映画化。取材のため東京拘置所でヤクザの死刑囚・須藤と面会した雑誌ジャーナリストの藤井は、須藤が死刑判決を受けた事件のほかに、3つの殺人に関与しており、そのすべてに「先生」と呼ばれる首謀者がいるという告白を受ける。須藤は「先生」がのうのうと生きていることが許せず、藤井に「先生」の存在を記事にして世に暴くよう依頼。藤井が調査を進めると、やがて恐るべき凶悪事件の真相が明らかになっていく。ジャーナリストとしての使命感と狂気の間で揺れ動く藤井役を山田孝之、死刑囚・須藤をピエール瀧が演じ、「先生」役でリリー・フランキーが初の悪役に挑む。故・若松孝二監督に師事した白石和彌がメガホンをとった。
<感想>実際に起きた事件を映画化する、それは映画の王道であり、犯罪を題材にした作品は日々多く量産されている。元ヤクザの死刑因から送られてきた衝撃的な手紙。告発される相手は不動産ブローカーで“先生”と呼ばれる人物と、その周りで起こる不可解な事件。ある日こつ然と消えた多くの人々。そして、真実を暴くため、自らの家庭を顧みず奔走する雑誌記者。
あまりにも出来すぎている、問答無用に面白いと感じながらも、一方ではあまりにも出来すぎているな、と原作を読んでそう思った。一人の雑誌記者がまるで刑事のように過去の事件を調べあげる。警察が殺人とは見抜けなかったいくつかの事件について警察に知らせ、または雑誌に発表してセンセーションを越した。それにより警察が動き“先生”と呼ばれる男のかかわる事件の一部だけが立件でき、やっと終身刑にすることができた。
犯人が捕まる。事実をそのまま脚本にすると、記者の藤井がヒーローになり、こんな事件がありましたで終わってしまう。この誰も救われない、凄惨な事件を単なるヒーロー物として描いていないところがいい。
確かに事件は“先生”の逮捕という形で一件落着したかのように見える。しかし、実際にはなにも解決していない。現実にはこんなにも簡単に次々と人を殺し、警察には知られずにいるという事実があり得ることが衝撃的であり、それに主犯である二人の殺人者の、正に人を殺すやり方に驚いてしまう。それはいつも見慣れた映画やTVのそれの比ではないからだ。
映像の中には、「冷たい熱帯魚」のように、人間の身体をバラバラに切断して焼却炉で焼き灰にしてしまう。もう一つは、酒を飲ませて殴る蹴るで殺し遺体を雑木林に捨てる。または生きたまま埋めてしまう。最後は、両手を縛って橋の欄干に立たせて、川に落ちて死なせる。もっとたくさんあるのだろうが、とにかく人間を殺すことが楽しくて仕方がないとでもいうような、笑いながら人を殺す暴力描写が続き、その手の映画が苦手な人は目を背けるかもしれない。
しかし、本当に危ないのはその後である。主人公と共に私たちは、現実に起きた凶悪事件の全真相を知り一歩づつ近づいていく。まるでフィクションの暴力映画のようにダイジェストにしたものであることに気付かされていく。
この映画の中での、死刑因の告発者と先生は実に悪いヤツとして描けている。憐れなところや恰好いいところは微塵もない。特に映画の中では、告発する死刑因を演じるピエール瀧と、告発される“先生”を演じるリリー・フランキーが、憎々しくて同情の余地のない嫌なヤツになっている。本当に観ていて憂鬱になる。
そんな気持ちになるのも、彼らによって酷い殺され方をする被害者たちがいずれも、ただ無知だったり老いぼれて判断力のない弱者だったりして、なまじ土地家屋などの資産があるだけで、二人の悪党どもに騙され、殺される。共感や理解のしようがない、残忍な暴力と利己主義と欲。本当にこの世は闇だという気分になる。憂鬱きわまりないのだ。
この映画の暗い現実が、告発者の依頼を引き受けて“先生”の知られざる殺人の数々を調べていくうち、真の悪人を告発するという正義のために、家庭も顧みずにのめり込んで行き調査を続け、離婚寸前まで追い込まれていく雑誌記者。
しかし、それ以上に藤井が認知症の母親の面倒を、妻に押し付けているのが許せなかった。家庭を崩壊させてまで、何故のめり込んだのか、そう問い詰めるような物語に設定することで、無残の事実の出来事を、人間の業の深さについての問いに飛躍させているように感じた。
映画での、記者のヒーロー化として描いているのと、彼が殺人者たちと最後に法廷で対決する下りは、脚色による創作であり、記者があたかもこの殺人者たちに魅せられたかのように、調査にのめり込んでいったのは何故かという問題も観客に投げかけてくる。
2013年劇場鑑賞作品・・・279 278 映画(アクション・アドベンチャー) ブログランキング
<感想>実際に起きた事件を映画化する、それは映画の王道であり、犯罪を題材にした作品は日々多く量産されている。元ヤクザの死刑因から送られてきた衝撃的な手紙。告発される相手は不動産ブローカーで“先生”と呼ばれる人物と、その周りで起こる不可解な事件。ある日こつ然と消えた多くの人々。そして、真実を暴くため、自らの家庭を顧みず奔走する雑誌記者。
あまりにも出来すぎている、問答無用に面白いと感じながらも、一方ではあまりにも出来すぎているな、と原作を読んでそう思った。一人の雑誌記者がまるで刑事のように過去の事件を調べあげる。警察が殺人とは見抜けなかったいくつかの事件について警察に知らせ、または雑誌に発表してセンセーションを越した。それにより警察が動き“先生”と呼ばれる男のかかわる事件の一部だけが立件でき、やっと終身刑にすることができた。
犯人が捕まる。事実をそのまま脚本にすると、記者の藤井がヒーローになり、こんな事件がありましたで終わってしまう。この誰も救われない、凄惨な事件を単なるヒーロー物として描いていないところがいい。
確かに事件は“先生”の逮捕という形で一件落着したかのように見える。しかし、実際にはなにも解決していない。現実にはこんなにも簡単に次々と人を殺し、警察には知られずにいるという事実があり得ることが衝撃的であり、それに主犯である二人の殺人者の、正に人を殺すやり方に驚いてしまう。それはいつも見慣れた映画やTVのそれの比ではないからだ。
映像の中には、「冷たい熱帯魚」のように、人間の身体をバラバラに切断して焼却炉で焼き灰にしてしまう。もう一つは、酒を飲ませて殴る蹴るで殺し遺体を雑木林に捨てる。または生きたまま埋めてしまう。最後は、両手を縛って橋の欄干に立たせて、川に落ちて死なせる。もっとたくさんあるのだろうが、とにかく人間を殺すことが楽しくて仕方がないとでもいうような、笑いながら人を殺す暴力描写が続き、その手の映画が苦手な人は目を背けるかもしれない。
しかし、本当に危ないのはその後である。主人公と共に私たちは、現実に起きた凶悪事件の全真相を知り一歩づつ近づいていく。まるでフィクションの暴力映画のようにダイジェストにしたものであることに気付かされていく。
この映画の中での、死刑因の告発者と先生は実に悪いヤツとして描けている。憐れなところや恰好いいところは微塵もない。特に映画の中では、告発する死刑因を演じるピエール瀧と、告発される“先生”を演じるリリー・フランキーが、憎々しくて同情の余地のない嫌なヤツになっている。本当に観ていて憂鬱になる。
そんな気持ちになるのも、彼らによって酷い殺され方をする被害者たちがいずれも、ただ無知だったり老いぼれて判断力のない弱者だったりして、なまじ土地家屋などの資産があるだけで、二人の悪党どもに騙され、殺される。共感や理解のしようがない、残忍な暴力と利己主義と欲。本当にこの世は闇だという気分になる。憂鬱きわまりないのだ。
この映画の暗い現実が、告発者の依頼を引き受けて“先生”の知られざる殺人の数々を調べていくうち、真の悪人を告発するという正義のために、家庭も顧みずにのめり込んで行き調査を続け、離婚寸前まで追い込まれていく雑誌記者。
しかし、それ以上に藤井が認知症の母親の面倒を、妻に押し付けているのが許せなかった。家庭を崩壊させてまで、何故のめり込んだのか、そう問い詰めるような物語に設定することで、無残の事実の出来事を、人間の業の深さについての問いに飛躍させているように感じた。
映画での、記者のヒーロー化として描いているのと、彼が殺人者たちと最後に法廷で対決する下りは、脚色による創作であり、記者があたかもこの殺人者たちに魅せられたかのように、調査にのめり込んでいったのは何故かという問題も観客に投げかけてくる。
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