『私が、生きる肌』などのスペインの巨匠ペドロ・アルモドバルが、アリス・マンローの短編集を基に描くヒューマンドラマ。音信不通となっていた娘を見掛けたと知人に言われた母親が、愛する娘に会いたいという気持ちを抱いたことがきっかけで物語が展開していく。『バカス』などのエマ・スアレスが現在、『ワイルド・ルーザー』などのアドリアーナ・ウガルテが過去の主人公を熱演。スタッフには、衣装に『ミッドナイト・イン・パリ』などのソニア・グランデ、美術に『抱擁のかけら』などのアンチョン・ゴメスらが名を連ねている。
あらすじ:スペインのマドリードでひとり暮らしをしている中年女性、ジュリエッタ(エマ・スアレス)。恋人のロレンソとポルトガルへの移住を計画していた彼女だったが、ある日、知人から“あなたの娘を見かけた”と告げられ、激しく動揺する。娘のアンティアは12年前、何も言わずに突然ジュリエッタの前から姿を消してしまったのだった。ロレンソとのポルトガル行きを諦めた彼女は、かつて娘と暮らしたアパートへ引っ越し、娘との再会にかすかな希望を抱く。そして心の奥底に封印していた過去と向き合い、所在も分からぬ娘に宛てた手紙を書き始めるジュリエッタだったが…。
<感想>ゲイというセクシャル・マイノリティである自分にこだわり続けて映画を撮る、スペインの鬼才ペドロ・アルモドバル。本作では、水難事故で夫を失い、また最愛の、母親というアイデンティティを保証する存在でもある娘に去られた女が、それによって崩壊した自分を取り戻すまでの物語になっている。
アルモドバルの映画は、ずっと母性を礼讃するであれ、嫌悪をもようさせるであれ、女性の性のイメージを過剰なほどに引きつれてくる。生きる、出会う、死ぬ、交わる、追う、隠れる、思い出す、告げるなどジュリエッタを形づくる動詞たちの中でも、孕むは人物を選ぶ点で特別であります。つまりは、母親である。母になること、母であろうとすること。母になってしまうこと。母であろうとしてしまうこと。
アルモドバルの描く女性たちは、「女性賛歌3部作」と呼ばれる「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥー・ハー」「ボルベール(帰郷)」がまさにそうであるように、何故にかくも魅力的なのだろう。
若き日のジュリエッタ(アドリアーナ・ウガルテ)と、マドリードに住む中年女性ジュリエッタ(エマ・スアレス)のヒロインを演じる二人はもとより、夫の女友達、母親、頑固な家政婦などに至るまで、みな忘れがたい印象を残すのであります。テーマは人間の責任感、罪悪感や死であり、暗く深刻なものだが、奇抜な人物造形とストーリーテリングで、心地の良い緊張感が続くのも最高。
子を産むという体験をさせてくれた子を失った者の回復、自分の命と引き換えに子供と向き合うこと。母娘にもたらされた者の残酷。娘の失踪に娘が妊娠して子供を産むということに、無知であった母親の痛恨。警察に捜索願を出し、探偵にも調べさせるも、娘の居所は分からない。
ここでは、母親のジュリエッタの不安を描き、その主たる原因である母子の断絶を解明すべき謎として差し出して、不安と未解決の緊張状態によって見る者を90分間宙吊りにするのである。
娘の不在という傷に蓋をして生きていたジュリエッタが、現在のマドリードで知人に再会したことで記憶の蓋がぱっくりと開いてしまう。ここから、ジュリエッタの回想は過去へとさかのぼり、自身の過去に起きた事柄を、一つずつ確認して、ジュリエッタはノートに手記をしたためる。
この回想される過去は現在にとって異物であり、サスペンスに飛んでおり、過去のトラウマティックな体験をも描かなくてはならないのだ。娘の父親となる漁師の男ショアンとの出会い、同じ車両でのメガネの男が列車が止まっている間に降りて、列車に飛び込むという惨事もある。
それに、娘の父親とは列車で出会うのだが、父親には寝たっきりの妻がいて、その他にも芸術家の若き愛人もいる。家を訪ねてみてその妻の葬式だということに驚き、家政婦のおばさんが、異様な感じで居ついている。
結局は、ジュリエッタが妊娠をしており、その漁師と結婚することになるのだが、芸術家の愛人とは別れない夫に腹を立てて始終喧嘩が絶えないのだ。娘が夏期講習で合宿に行く日にも、夫婦喧嘩をしてしまい夫は嵐が来るのに漁に出掛けてしまう。
その午後から嵐となり、荒れ狂う海で夫の船が転覆し、死亡。そのことを娘になんと説明しようか悩む母親。詳しいことは言わずに父親が亡くなったことだけ話して、娘は友達の家へ遊びに行ってしまう。こんな時こそ、母親として、娘と父の亡骸を見つめ、話をするべきなのに。
いつものようにジュリエッタの孤独を表すために、冒頭から臓器のように鼓動する真っ赤なブラウス。赤と白のきつすぎるほどの配置に目を奪われる。娘の19歳の誕生日ケーキの真紅色、列車の中でのブルーのセーター、ところどころに使われる真っ赤が印象的である。そして、鮮やかな色彩感覚と選び抜かれた小道具など美術、印象的な音楽などいつもながらの多才ぶりに感動するのだ。
2016年劇場鑑賞作品・・・266映画(アクション・アドベンチャー) ブログランキング
あらすじ:スペインのマドリードでひとり暮らしをしている中年女性、ジュリエッタ(エマ・スアレス)。恋人のロレンソとポルトガルへの移住を計画していた彼女だったが、ある日、知人から“あなたの娘を見かけた”と告げられ、激しく動揺する。娘のアンティアは12年前、何も言わずに突然ジュリエッタの前から姿を消してしまったのだった。ロレンソとのポルトガル行きを諦めた彼女は、かつて娘と暮らしたアパートへ引っ越し、娘との再会にかすかな希望を抱く。そして心の奥底に封印していた過去と向き合い、所在も分からぬ娘に宛てた手紙を書き始めるジュリエッタだったが…。
<感想>ゲイというセクシャル・マイノリティである自分にこだわり続けて映画を撮る、スペインの鬼才ペドロ・アルモドバル。本作では、水難事故で夫を失い、また最愛の、母親というアイデンティティを保証する存在でもある娘に去られた女が、それによって崩壊した自分を取り戻すまでの物語になっている。
アルモドバルの映画は、ずっと母性を礼讃するであれ、嫌悪をもようさせるであれ、女性の性のイメージを過剰なほどに引きつれてくる。生きる、出会う、死ぬ、交わる、追う、隠れる、思い出す、告げるなどジュリエッタを形づくる動詞たちの中でも、孕むは人物を選ぶ点で特別であります。つまりは、母親である。母になること、母であろうとすること。母になってしまうこと。母であろうとしてしまうこと。
アルモドバルの描く女性たちは、「女性賛歌3部作」と呼ばれる「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥー・ハー」「ボルベール(帰郷)」がまさにそうであるように、何故にかくも魅力的なのだろう。
若き日のジュリエッタ(アドリアーナ・ウガルテ)と、マドリードに住む中年女性ジュリエッタ(エマ・スアレス)のヒロインを演じる二人はもとより、夫の女友達、母親、頑固な家政婦などに至るまで、みな忘れがたい印象を残すのであります。テーマは人間の責任感、罪悪感や死であり、暗く深刻なものだが、奇抜な人物造形とストーリーテリングで、心地の良い緊張感が続くのも最高。
子を産むという体験をさせてくれた子を失った者の回復、自分の命と引き換えに子供と向き合うこと。母娘にもたらされた者の残酷。娘の失踪に娘が妊娠して子供を産むということに、無知であった母親の痛恨。警察に捜索願を出し、探偵にも調べさせるも、娘の居所は分からない。
ここでは、母親のジュリエッタの不安を描き、その主たる原因である母子の断絶を解明すべき謎として差し出して、不安と未解決の緊張状態によって見る者を90分間宙吊りにするのである。
娘の不在という傷に蓋をして生きていたジュリエッタが、現在のマドリードで知人に再会したことで記憶の蓋がぱっくりと開いてしまう。ここから、ジュリエッタの回想は過去へとさかのぼり、自身の過去に起きた事柄を、一つずつ確認して、ジュリエッタはノートに手記をしたためる。
この回想される過去は現在にとって異物であり、サスペンスに飛んでおり、過去のトラウマティックな体験をも描かなくてはならないのだ。娘の父親となる漁師の男ショアンとの出会い、同じ車両でのメガネの男が列車が止まっている間に降りて、列車に飛び込むという惨事もある。
それに、娘の父親とは列車で出会うのだが、父親には寝たっきりの妻がいて、その他にも芸術家の若き愛人もいる。家を訪ねてみてその妻の葬式だということに驚き、家政婦のおばさんが、異様な感じで居ついている。
結局は、ジュリエッタが妊娠をしており、その漁師と結婚することになるのだが、芸術家の愛人とは別れない夫に腹を立てて始終喧嘩が絶えないのだ。娘が夏期講習で合宿に行く日にも、夫婦喧嘩をしてしまい夫は嵐が来るのに漁に出掛けてしまう。
その午後から嵐となり、荒れ狂う海で夫の船が転覆し、死亡。そのことを娘になんと説明しようか悩む母親。詳しいことは言わずに父親が亡くなったことだけ話して、娘は友達の家へ遊びに行ってしまう。こんな時こそ、母親として、娘と父の亡骸を見つめ、話をするべきなのに。
いつものようにジュリエッタの孤独を表すために、冒頭から臓器のように鼓動する真っ赤なブラウス。赤と白のきつすぎるほどの配置に目を奪われる。娘の19歳の誕生日ケーキの真紅色、列車の中でのブルーのセーター、ところどころに使われる真っ赤が印象的である。そして、鮮やかな色彩感覚と選び抜かれた小道具など美術、印象的な音楽などいつもながらの多才ぶりに感動するのだ。
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